いばらの冠

教会では、明後日の4/10(日)から、キリストの十字架の死を記念する受難週を迎えます。そしてその翌週の4/17(日)が、キリストの復活を祝うイースターです。

キリストはその受難において、いばらの冠を頭にかぶらせられました。そのいばらについては、学者の説によると、「キリストイバラ」か「シラー」(トゲワレモコウ)のどちらかであろうということです。

「キリストイバラ」は、現在、エルサレムでは見られないそうですが、「シラー」はイスラエル中の人の手の入っていない所でよく見られ、エルサレム周辺でも簡単に見つかるそうです。

シラーはとげが長く硬いので、今でも侵入防止の柵にからめたり、羊を守る石垣の上に置いて、猛獣の侵入を防ぐのに役立っているそうです。また、とげがとても堅いので、冠のように丸めるのは大変なのですが、イスラエルでは、そのいばらで作った冠が、お店で売られているそうです。

聖書では、いばらは最初の人アダムとエバが、エデンの園で罪を犯した結果、地面から生え出てきたものであると教えられています。

「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。」創世記3章17、18節

堅いとげでチクリと刺すいばらは、私たち人類の罪を象徴するものになりました。

「軽率に話して人を剣で刺すような人がいる。しかし知恵のある人の下は人をいやす。」箴言12章18節

人の失敗や弱さを責め、非難し、攻撃することば。陰口、皮肉、いやみのきいたことば、人を見下した態度、不機嫌、相手の人の気持ちを考えない自分本位の行動。私たちの心の中にある罪の性質は、様々な種類のとげとなって、周りの人を突き刺し、争いの火種を作り、お互いの人生を、痛みと苦痛に満ちたものにしてしまいます。

そして何の役にも立たない、邪魔ないばらが、根こそぎにされ、燃やされてしまうように、私たちは神様の怒りと裁き受けるべき存在となってしまいました。

けれどもそんな私たちをあわれみ、愛し、赦し、救うために、神は愛するひとり子イエス・キリストをこの世に送り、私たちの身代わりとして、十字架の苦しみを受けさせてくださいました。

イエス・キリストがかぶってくださったいばらの冠。それは全人類、私たちひとりひとりのすべての罪を、イエス・キリストが引き受けてくださり、すべての呪いと刑罰を身代わりに受けてくださったことを表すもの。私たちひとりひとりに対する神の愛のしるしとなったのです。

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」第1ヨハネ4章10節

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」ヨハネによる福音書5章24節